喜びと感謝


私が大野先生の下を訪れ、大野先生の下で勉強をすることを決意し、最初に勉強した曲はバッハのフランス組曲第5番でした。


最初の課題は響きでつなげるレガート作り。

ここである題材を下に『響きでつなげるレガート』について説明していきたいと思います。

もしかしたらそのこととはまったく観点が違うように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、
私は『声に出して歌う歌』を通じてピアノという楽器の奏法を考えなくてはならないと思ったからこそ、こういった紹介の仕方を選ばせていただいています。



それはつい先日のことでした。


『音をポンポンピアノのようにたたかないで、鳴らさないで…

ある声楽家の方がお話されていたのを耳にしました。

誤解がないように補足しますが、これは決してピアノを悪く言っているのではありません。
練習している課題に対し、あるフレーズを、なるべく…できうる限り、それはそれはレガートに歌ってほしいという指示を出すために形容されたに過ぎない言葉です。



ここで、考えていただきたいのは、『音をポンポンピアノのようにたたかないで、鳴らさないで』という言葉の意味です。

私はこの指示を聞き、

『あぁ、この人は音をレガートに歌うピアノを知っているのかもしれない。』

と、そう感じました。


『音をポンポン』または『ピアノを打楽器的に』と表現される方もいらっしゃいますが、
ピアノという楽器は猫が歩いても、ねずみが歩いても鍵盤を押せる重みさえあれば、誰が鍵盤を触っても音を出すことのできる楽器です。

そのため本当の意味で楽器の美しさ、楽器のもつ表現の幅を、誰でも簡単に音が出せるからこそ、ある意味で疎かにしてしまいがちなことがあるようにも感じられるのです。



生徒へのレッスンをしていても私自身感じることなのですが、実際に声に出してある曲もしくはあるフレーズを歌ってみるとき、

『どう考えても、それを声に出して歌ったとき、そういう歌い方はしないだろう…』

というような歌い方で…楽器を操作し、結果、曲のイメージや音楽そのものが不自然に語られる事があります。


実際にレガートで…とか、スラーの記譜がなされている場所でそれなりにそう聴こえなくもないなぁ…と感じられる音を奏でていても、

それが本当の意味でのレガートに感じられにくい事もあります。



しかし、生徒自身は曲に対し歌心を持っていたり、それなりにそういう音楽を求めて演奏していることのが多いのも事実なのです。


もちろんレガートが感じられにくい原因は音楽的なことを理解できていない、またそれゆえにそういう音を操作できず、いうなれば単純に、
ポンポン、たたいて、無理に楽器を押し鳴らしてしまったことも考えられるでしょう。


弾き方を知らずに結果レガートとして感じられない旋律を奏でてしまったとも言い換えられるかもしれません。


それは私が教えている子供に限らず、専門的に音楽を勉強している方にも残念ながらそういった感覚が足りないことも感じられます。



実際に楽譜にスタッカートが記譜され、音と音の間にスタッカートを演奏している、そう聞こえるだけの『間』がそこに存在していれば聴いているものにはそういう演奏として感じられ、
またスラーが記譜され、スラーを意識し音と音の間の表現を音楽的作品解釈を踏まえた上で、スラーとして響きで表現していればそれはそういう演奏として感じられ。

そういう『響き』で音楽も奏でられ、

そういうものに対してのある意味で繊細に気を使い、奏者はそういう自律をして演奏をしなければならない、そういう感覚もこの奏法には存在すると思っているのですが…。



それが私においては当初ピアニストとして自覚し足りていなかったのですが、大野先生の指導を受け、そういった音色の歌わせ方が感覚的に理解でき、
その事が私にとって決定打となり、先生の仰って下さることを身にしみて理解しようという意欲を沸き立たせる結果にも至りました。



また、大野先生の下で学ぶ奏法には、そういう演奏の仕方に合理的な楽器の奏で方として『弾きやすさ』を実感できるテクニックが求められており、


いかに合理的にその作品作品の音楽や作品性を豊かな音色を通じ表現するかということに徹底した奏法


また自然な音楽的解釈の元に起こりうる、作品の持つ自発的欲求を表現するべく伝統的な奏法と私は感じているのですが…。



利点の多さにおいても、楽しめる音楽作りには適しており、生涯学べる音楽としてもこの奏法の研究には終わりがないようにも思っています。


そして、その合理性をまず解釈(ある意味での体得)していくのであれば、作品の持つ音楽的要素とは自然な呼吸、自然な流れにより点と線とで弧を描くかのごとく
作り出され、結果『その弧』を導き得るために、音と音とのつなげ方、『レガート』というカテゴリーが重要視される必要があると考えられるのです。


まるで『歌を歌うかのように』をピアノで音を表現する場合、楽器を媒体にし、またその楽器を自分の体の一部を使用し演奏するわけですから、
その音の奏で方に少々の工夫、そしてその体の一部の使用の仕方に合理性を求め、自然な音楽を求める事は理にかなった奏法と感じられるのです。


昨今『脱力奏法』といった言葉が世間を賑わい、そういう奏法に関して様々な文献であったり研究がなされています。
私自身もそういう奏法を探している中、この奏法と運命的にも出会ったことは別の章に書かせていただきましたが、
その最初の段階で基本となるレガートを奏でる方法を知る必要があり、そのために前述の曲をさらうことになったのですが。


その作品の音楽的要素を学ぶとともに、その音楽的要素をいかに合理的に表現するかに優れた奏法であるこの奏法。
今現在振り返ってもこれは決して大げさなことではなく簡単に出会える奏法ではないぁ…と実感しております。


そして今でも師として大野先生の下で不定期ではありますがレッスンをしていただき、喜びとともに感謝もしている次第です。

それらを身につけるということは決して容易ではないと感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、
しかしそれはピアノを『容易』に弾けるようになるための時間を要することがポイントと私は考えています。

容易でないものを短時間で習得することは難しいかもしれませんが少しずつの積み重ねが(時間の)自分を更なる音楽の世界へ導いてくれる。


そう感じられる弾き方を教えていただいていると実感している次第です。






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